トップ > アニメ・コミック > 小学生を対象としない小学生マンガはどこからきたのか?
いしたにまさきの新刊:HONDA、もうひとつのテクノロジー ~インターナビ×ビッグデータ×IoT×震災~ 01 それはメッカコンパスから始まった|Honda、もうひとつのテクノロジー 02 ~インターナビ×GPS×ラウンドアバウト~ 運転する人をサポートすること|Honda、もうひとつのテクノロジー 03 ~インターナビ×災害情報×グッドデザイン大賞~ 通行実績情報マップがライフラインになった日
2005.12.30
小学生を対象としない小学生マンガはどこからきたのか?
|
ツイート
|
|
以前に書いた志村貴子に関するエントリーに反応がありました。
あひるちゃんがゆく:魅力的な「小学生マンガ」とは。〜色々マンガレビュー - livedoor Blog(ブログ).
何がポイントなんだろう、「小学生マンガ」。
あひるちゃんは小学生マンガの肝を
時間を止めないことでしょうか。
としています。
これ表現を変えると人生における過剰に濃密な時間を描くということであると思います。「わたしは真悟」における山場のひとつである「もう子供の時代には戻れないのよ」という真鈴の初潮という通過儀礼に対する叫びは、これを最も象徴しているセリフだと思います。
その昔、小学生マンガと言えば、登場人物が小学生であるというだけではなく、その対象も小学生だったと思います。ドラえもんに代表される一連のコロコロコミックのマンガなんかがその典型です。そういうマンガでは、上記の様なセリフは必要ありませんでした。それは実に野暮なことであるからです。(それがいかに野暮であるかは劇画オバQを参照のこと)
では、どこから変わったのでしょうか。
私的には、萩尾望都の「トーマの心臓」であると思います。人生における過剰に濃密な時間があり、それがその後の人生を決めてしまうことがあり、そしてそういう舞台を選ばないと描けない大人に対してのテーマがその段階で浮上してきたのです。
「トーマの心臓」と言えば、一般的には同性愛を題材としたマンガのスタート(ホントに最初の作品ということではない)として捉えられていますが、同性愛はあくまでも題材であり、テーマではありません。
では、人生における過剰に濃密な時間を描くとはどういうことなのでしょうか。自分はどこからきたのかということに対する回答への手法の一歩であり、現在の自分が生きていくためにある種のものからはきっちり決別する必要があることを訴えているとも言えます。そう考えると「トーマの心臓」で描かれたものは、キリスト教的な原罪という説には腑に落ちるものがあります。
ということで、クレヨンしんちゃんの大人帝国の逆襲をもう1回見ないといけないなあ。このエントリー全般的に行間広すぎてすいません、察してください。
【志村貴子に関連するエントリー】
- 小学生を対象としない小学生マンガはどこからきたのか?.
- マンガで青いと言えば・・・(志村貴子の新刊が出ます)。.
- 志村貴子という才能をどう表現したらいいのか皆目検討がつかない。.
- マンガ雑誌(YOUNGYOU)が終わるということ。.
- 小学生をマンガの題材とすることについて.
« 葬式にまつわる諸般のこと | トップページ | ぼくこそが大桃美代子さんだったようです。 »
投稿:by いしたにまさき 2005 12 30 11:40 PM [アニメ・コミック] | 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
この記事へのトラックバック一覧です: 小学生を対象としない小学生マンガはどこからきたのか?:
» トーマからジェルミへ 〜『残酷な神が支配する』 from あひるちゃんがゆく
またマンガのこと書きます。すいませんちょー書きます。
以前書いた「魅力的な小学生マンガとは」という記事に、いしたにさんがまた新たにトラバを下さいました。
日本全国・見たいもんはみたいぞの会『小学生を対象としない小学生マンガはどこからきたのか?』
これを....... 続きを読む
受信: Jan 9, 2006, 2:56:47 AM









































