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2006.08.13

要するに涼宮ハルヒは実にブログ的だったってことなのだ




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DivX Stage6をここのところ、ご多分に漏れずに見ているのだが、その中でエヴァンゲリオンを見ていて、わかってはいたが痛感したことがある。それは要するにいかにも画が古いってことである。想像以上にアナログとデジタルでは、画が異次元のものになっていたということだ。

で、これは熱心なアニメ好きではない私にとってはハルヒ以降という構図なのです。つまりは、涼宮ハルヒの憂鬱は以降を考えることが大事な作品にやはりなっていたということでもあります。

リンク: エウレカセブンは○○以前だったか?○○以降だったか?:[mi]みたいもん!.

・エウレカセブン=それまでの何かをまとめて現状認識させる作品
・エヴァンゲリオン=それ以降の何かを開いた作品

涼宮ハルヒの憂鬱が以降で考えなくてはいけない作品である理由をもう少し読み解いてみたい。涼宮ハルヒの憂鬱において京アニメに何が素晴らしかったかということを整理していくと、要するに2つの能力となる。

  1. スケジュール管理能力
  2. コミュニケーション能力

この2つ。

スケジュール管理能力について

涼宮ハルヒの憂鬱 SOS団ラジオ支部 番外編CD Vol.1

涼宮ハルヒの憂鬱 SOS団ラジオ支部 番外編CD Vol.1

このSOS団ラジオ支部の中でメイン声優である3人がはっきり言っていることがある。

「画のちゃんとあるアフレコって久しぶりだったら、緊張したー」

全く困った話だが、これが現状なのだ。そして京アニメはそれでは満足しなかったというだけのことだ。アフレコの前にしっかり画を仕上げる。そのためにはスケジュール管理がきっちりできることが必須である。

コミュニケーション能力について

ハルヒには大きくいって、4つの層の人間が関わっている。

  1. 原作者
  2. アニメ制作者
  3. アニメ以外の制作者(サイト・音楽など)
  4. ファン

そして、それが見事に連携してプロジェクトを進めている。わざわざファンをかき出しているのは、ファンの反応の作品の一部として考えているとしか思えないからである。

リンク: 涼宮ハルヒが起こしたYouTubeの憂鬱、ネットマーケティングの大成功例。:[mi]みたいもん!.

だから、ハルヒのスタッフはいわゆる「あちら側」のネットの善意を信用したんですね。信用しているから、安心して不親切さを仕掛けられる。

で、これってまさにブログ以前と以後の構図と同じなのだ。

さて!


しかし、これがいくら優れていても、ここにデジタルという技術が付随しなければ、ハルヒはハルヒにならなかったのだ(ブログにはXMLが必須だったことと同じ)。

デジタルとはなにか?という命題には、色んな答えがあるがその中でも重要なものが2つあると思います。

  1. トータルリコールが可能であること
  2. 時間さえあれば、どこまでも作り込むことが可能であること(レイヤー構造)

この2つ。

アフレコから納品までの時間というのは、最後の調整時間である。ここで確実に京アニメは画をいじっている。なぜなら、デジタルであればそれが可能であるからだ。

また、アナログにおいて、背景というのはまさに背景である。しかし、デジタルにおいては単純に別レイヤーであるだけのことだ。時間さえあれば、その背景を校舎のガラスに映り込ませるとかの作り込みはいくらでも可能なのだ。

ハルヒってたいしたことないよという人達には、ブログも少し前までブログってただの日記でしょとよく言われていたことを思い出してもらいたいと思います。

そうそう、これはちょっと言い過ぎになるかも知れませんが、デジタル技術で制作される作品にはどこかブログ的なものがあるのではないか?と思って見てみることは大きくまちがっていないと思えます。

ということで、やっぱりハルヒって大した作品だったのだ。ブログではじめてWebはWebらしくなったと思えるように、ハルヒでやっとデジタルアニメはデジタルアニメになったのだ。

すっきりしたので、時かけ見に行こうっと。

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投稿:by 2006 08 13 02:27 AM [ウェブログ・ココログ関連, 涼宮ハルヒの憂鬱] | 固定リンク

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要するに涼宮ハルヒは実にブログ的だったってことなのだ :miみたいもん! むう。「デジタルアニメだからレイヤーで後からいくらでも手が入れられた」「要するに、京アニの強さとはスケジュール管理力である」。なかなか目からウロコな感じ。 ... 続きを読む

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